久留米絣のある暮らし。

kurume kasuri textile

久留米絣のはじまり

久留米絣テキスタイル

世界の絣と久留米絣

イカット。それは絣を表す世界共通のことば。

由来は「縛る、結ぶ」という意味のマレー語だといわれています。絣織物の特徴は、タテ糸とヨコ糸をそれぞれ括って染色し、模様を織り出す技術ですが、これは世界各地に分布しています。源流であるインドからその技術は広く伝わり、ペルシャから南ヨーロッパへ、中国や東南アジアの島々から琉球へと渡来しました。
日本で作られる代表的な絣は、広島県の備後絣、愛媛県の伊予絣、そして福岡県の久留米絣。久留米絣は大陸から渡来した技術でなく、機を踏み家族の衣服を織る日常の中から生まれ、人々の創意工夫とともに絣として発展していきました。

久留米絣テキスタイル

絹織物から綿織物へ

私たちの生活に馴染みの深い、綿という素材。

肌ざわりがよく洗濯も簡単で、扱いやすい生地として日常着に用いられます。古代から日本で作られてきた絹織物に比べ、綿の種がもたらされ、綿織物が一般的に作られはじめたのは意外にも江戸中期以降。それまで綿織物の材料である綿花は日本では栽培されておらず、富裕層の手にしか渡らない高級な輸入品だったそうです。
綿の栽培は畿内を中心に広がり、九州では大分県の旧日田郡を中心に栽培が行われました。その生産地は九州最大の流れ、筑後川を下って筑後地方にまで広がっていきます。筑後川の育む豊かな土壌のもとでは綿、そして藍が栽培され、人々は農閑期の副業として無地や縞柄の綿織物を織り進めていきました。

久留米絣の生地

はじまりは少女の好奇心

久留米絣の特徴である、緻密な柄模様。

それは一人の少女の手によって誕生しました。優秀な織り手であり、農家の娘であった井上伝。その当時12、3歳だったと伝えられています。彼女はある日、自分の衣服にできた斑点に着目し、糸を解いてその仕組みを探りました。そして考察の末に、糸を括り防染した上で染色する方法を思いついたのです。これこそ、絣において最も重要な工程である「括り(くくり)」。現在にも続く、また世界各地の絣制作で行われる、柄模様を織り出す技法です。
初めて伝が糸を括って染色し、その糸で織り上げた生地は、一面に白い点が散る「白紋散乱」という柄でした。空に雪の舞う情景に重ねて「雪降り」「霰織り」と呼ばれ、とても評判になったといいます。伝の考案した絣は自然発生的な柄でしたが、後にさまざまな人の手が加えられ、緻密な絵柄を織り出す技法、効率化をはかる機械が考案され、久留米絣は福岡を、さらには日本を代表する綿織物として進化を続けていくのです。

久留米絣の「手織りの工程/手括り」重要無形文化財の指定要件に含まれる「手括り」の技法。用いるのは麻の一種である「アラソウ」。
「手織りの工程/手括り」括る時にはアラソウを水に浸し、糸に直角に一重で固く括ります。
久留米絣「手織りの工程/手織り」手足を使い、柄を合わせながら慎重に織っていきます。力加減が難しく、頼りになるのは長年の勘。
久留米絣「手織りの工程/手織り」手織りの工程。写真は4点とも、かすり工房「藍の唄」富久織物にて。